― 馬具職人が語り継いだ、香りと人生の関係 ―
Ⅰ.なぜ今、エルメスの哲学を辿るのか
あなたは、なぜその香水を纏うのでしょう。
それは一日の気分を整えるためでも、誰かに印象を残すためでもない。
香りを選ぶということは、自分の“生き方”を静かに映す鏡のよう。
時代を越えて美を語り続けるブランド、エルメス。
「時を重ねて美しくなる」。
トレンドではなく、職人の手を信じ、ゆっくりと成熟していくものづくりの哲学は、
いまの私たちが“どう歳を重ね、どう美しく生きたいか”を問いかけてきます。
Ⅱ.原点 ― 馬具職人が見つめた「人と時間」
1837年、パリ。
馬具職人ティエリー・エルメスは、工房を開きました。
貴族の馬車社会の中で、彼が目指したのは最高品質を追求しながらも「機能の中の美」。
それは、飾りではなく、動きの中で完成する美しさでした。
より品質の高いものを追求する彼の姿勢はずっと変わらないものでした。
鞍や手綱に込められたのは、馬への“思いやり”。
「動物の身体に負担をかけず、使う人にも心地よくあること」。
エルメスにとっての美とは、優しさの延長線上にある機能美だったと私は捉えます。
のちにブランドがバッグを作り、香水を生み出しても、
この視点は変わりません。
どの製品にも、“使う人の時間を美しくするための工夫”がある。
「美は使う人とともに育つあるいは委ねられる」という原点が、
エルメスの哲学の核となりました。
Ⅲ.革新 ― 優しさが導いた創造
職人の世界において、変化はときに恐れられます。
けれどエルメスは、革新を“温かい手”から始めたブランドでした。
3代目エミール=モーリス・エルメスは、
馬具の金具に使われていたファスナーを見て、
「これは新しいバッグのかたちを変える」と直感します。
鞄にファスナーを取り付けたのは、エルメスが最初でした。
その後、シャネルがスカートにファスナーを採用するときも、
実際の取り付けを手伝ったのはエルメスの職人たちだといわれます。
この“他者のための革新”が、ブランドの精神を象徴しています。
驚かせるためではなく、使う人を自由にするための変化。
またファスナーの導入も、時計の鎖を革に変えた腕時計の発明も、
「人の所作を美しくするため」とも言われています。
男性がネクタイを締める姿がセクシーであるように、女性がバックを使う時の姿をエレガントに。
何気ない仕草を美しく変えること。
革新とは、速さの競争ではなく、
思いやりの形を変えることだったのです。
Ⅳ.精神 ― “遅さ”を誇りに
エルメスには、他のどんなブランドにもない言葉があります。
「時間は売れない」。
最も高価なものは、スピードではなく“時間の質”。
職人の手が動くリズムそのものが、ブランドの呼吸とでも言えます。
機械でできることをあえて手で行い、
一針の縫い目の美しさに、時間を託す。
世界恐慌の時代、経営危機に陥った際、
職人たちは賃金の支払い延期を自ら申し出て、
エルメスを守ったといいます。
それは、単なる雇用関係ではなく、信念で結ばれた共同体。
“遅いこと”を誇りにできる強さ。
それが、エルメスを今日まで導いた見えない哲学です。
エルメスは「流行」ではなく、「時間」と共に生きる。
だからこそ、使い込むほどに美しくなるのです。
Ⅴ.香り ― 目に見えない手仕事
2004年、調香師ジャン=クロード・エレナがエルメスに加わります。
彼の信条はこうでした。
「最小限の素材で、最大の表現を」。
香りを重ねず、透明感と構造で語る。
まるで一本の糸から鞍を縫い上げるように、
素材を吟味し、余白を活かす。
「香りもまた職人の手仕事」と語ったエレナは、
香水を“纏う人との共作”と捉えました。
瓶の中で完成するのではなく、肌にのせた瞬間に完成する芸術。
つまり最後の仕上げをするのは、香りを纏う“あなた”自身です。
エルメスの香水は、
使う人の呼吸で完成する、
生きている作品なのです。
エルメスの香りに通う“ゆったりとした時間”
エルメスの香りを年代順に改めて香っていくと、
どの作品にも共通して“ゆったりとした上品な時の流れ”のようなものを感じます。
香りの変化がゆっくりという意味ではなく、
一つ一つのアコードや香料が、
慌てず、急がず、ありのままの姿で存在している──
そんな“穏やかな時間”が流れている。
それが結果として、
“洗練された静かな気品”のようなものにつながっていると私は解釈します。
【全体的な共通点】
● シトラスが幅広く使われる
ただ爽やかなだけではなく、
自然の渋みや苦み、みずみずしいグリーンがそのまま息づいていて、
透明感の中に多層的な表情が見えます
● 調和や透明感を与えるためのアクセントでスパイスを
インパクトで殴るのではなく、
香り全体の流れを美しく整える役割。
● イリスの高貴さ
度々登場するイリス。高貴なイリスは静かに香りをまとめる“気品”を仕立ててくれます。
● レザーの滑らかさが時折立ち上がる
主張ではなく、質感として寄り添うような存在感を感じさせます。
エルメスの香り“らしさ”は、
こうした一つ一つの香料の自然な表情を、
そのまま大切にしているところだと感じれます。
1960–1999:女性像を香りで描いていた時代
この時代のエルメスは“どんな女性を描くか”が香りに反映されていました。
カレーシュ(1961)
最初の一作目から、
フローラルの華やかさがありつつ、上品で優雅。
派手な主張ではなく、控えめな女性らしさ。
カレーシュ ソワール
時代背景もあり、女性の社会進出が広がる中、
華やかさの奥にしなやかさや芯の強さが漂う。
24 フォーブル(1995)
オレンジフラワーとジャスミンのアコードが明るく華やか。
“ゴージャス”という言葉が似合う、当時のエルメスを象徴する香り。
この時代のエルメスは
三大フローラル+イリスという組み合わせで
美意識タイプの“雅”をの価値観に合いそうな作品たちです。
2000年代:女性像ではなく、“世界観”そのものを香りにする時代へ(エレナ期)
2000年代に入ると香りづくりの方向性が大きく変わります。
“特定の女性像”から離れ、テーマ性のある作品へと変化します。
オー デ メルヴェイユ
真昼の空の下で光る星々、
不思議の国の水のような世界観。
さらに香りの構成を逆転させたような処方が特徴的な作品で注目を集めました。
庭シリーズ
エルメスを生み出すディレクターたちの“庭”や
インスピレーションの源をそのまま香りにしたシリーズ。
風景、湿度、光──
“情景としての香り”という新たな方向性が確立されてきます。
ユニセックス化が本格的に進んだのもこの時代の特徴です。
エルメッセンス
自由な精神がテーマで、
これまでのエルメスにない東洋のスパイス、ウッド、
時にグルマンまで取り入れられました。
香りの構造はシンプルで、
香料そのものの美しさがより際立ちます。
エレナの作品は
“削ぎ落とす美しさ”を大切にしています。
余計な装飾がないからこそ、香料の表情が美しく楽しめます。
2000年代後半:原点回帰とモダン化の融合
この時期には、
1900年代の上品で雅やかな香りを現代的にアレンジした作品が登場し始めます。
ケリー カレーシュ
エルメスの象徴であるレザーを主役にしつつ、
マスキュリンとフェミニンを行き来するような構成です。
次世代に向けた“エルメスの再提案”のような印象をもたらします。
また“時を超越して”というエルメスの精神と同様に、
過去の名香を“現代の肌感覚”に合わせて蘇らせる試みが見られます。
この頃には、
エルメッセンスで開いた東洋香料が
様々な作品にも自然に取り入れられ、
透明感のあるエルメスらしさに“深み”が加わります。
2010年代に近づくにつれて、
フルーティのジューシーさやマリン、イリスなど
さまざまな要素が柔らかく重ねられ、
“澄んだ香り”という表現がふさわしい品のよさが育っていくようにも感じました。
2010–現在:継承と革新(ナーゲル期)
2016年にクリスティーヌ・ナーゲルが就任すると、
エルメスの精神を受け継ぎつつ、
ご自身の個性も織り交ぜていきます。
ギャロップ
レザーとムスクの滑らかさが際立ち、
包み込むような温かさを感じられます。
原点である“革職人の精神”に戻ったかのような作品。
メルヴェイユ ブルー
オリジナルの構造にマリンノートをしっかり加えて、
ナーゲルらしい新しさが感じられます。
ツイリー
ジンジャーとチュベローズの組み合わせが特徴的。
若い世代のための新しい入口としての香りです。
色鮮やかだけど、どこか品があり、エルメスらしさは崩さずに。
ナーゲル期は、
エルメスらしい透明感・穏やかさに、
時に温かさや鮮やかさが加わって、
“現代のリズム”になっている印象を感じられます。
結びに
あなたは、なぜその香水を纏うのですか。
それは、今日の自分を飾るためではなく、
明日、どんな生き方を選びたいかを思い出すため。
エルメスの香りを纏うということは、
“時を重ねる美”を選ぶということなのです。
Ⅵ.結章 ― 「時を重ねることは、美しく生きること」
エルメスの香りは、若さを飾るためのものではありません。
むしろ、時間とともに深まるからこそ生み出せる“ゆったり品格のある洗練された香り”。
そこには、老いを恐れず、変化を受け入れる美しさがあります。
人生をゆっくりと感じるように心が豊かであること。
それは、香水のように“揮発する美”ではなく、
日々の呼吸に溶け込む穏やかな輝きです。
「時を大切にしながら過ごすことで美しくなる。重ねる美しさ」――エルメスの哲学は、
そう語りかけているように思えます。丁寧に暮らす中で美しさが育つと伝えてくれているかのよう
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